●バレーボールへの想いできるチームだと思いました。ただ、お客様にお金を払ってプレーを見てもらうことの恐ろしさ、ファンがつくということ、そういった部分のアスリート教育が必要です。―ご自身が現役の頃と比べて、今の日本のバレーボールや選手と違うと感じる部分は多いですか?引退して30年…育ちが違えば教育も違う、バレーの現場も殴られながら根性で育ってきてる子達じゃない。負けた時に選手を元気付けるのがこっちの仕事なのに、最初から割と元気だから意識の違いはあるかもしれませんね(笑)。昔は怖かったですよ。明日を保証されないんです。「もう、お前帰っていいよ」その言葉が最後なんです。自分がここで生き残るために何をすれば納得してもらえるか、現役時代はそればかり考えていました。誰よりも早く練習に行ったり、監督の車を磨いてみたり(笑)。ファンがいっぱいいて、監督が試合に出さなければファンが許さないって場面もあるわけです。人気の選手が同じポジションで、私と代わった途端に会場中からコールが起きたこともありました。それでも、その選手がダメな時は私が!という存在価値を出すために、毎日必死でしたね。―現役時代は大変なご苦労をされたんですね。そんな石田さんの人生のターロンドン(オリンピック)では英雄。自分が出たロスの銅メダルから28年…時代を感じますよね。オリンピックでは選手同士がライバルでしたけど、今でも交流が続いています。バレーに出合わなければ、なかった縁かもしれない。そう考えると人生、ドラマですよね。今、日本はサッカーとか野球とか卓球がものすごく頑張ってるじゃないですか。どっちかというとバレーボールがマイナースポーツになりつつある。メディアとして外に出る機会も減っていますし、やっぱり勝たないとダメなんだって思いますよね。―バレーボール全体が盛り上がるよう、私達も応援していきます!それでは毎回ゲストの方にしている最後の質問です。石田さんは今、どんな旅路にいらっしゃいますか?私はいつも目標をトップに置くんです。「なんで大学に通ってるの?」と言われた時に、30を過ぎて子育てしている高卒のおばさんが据える目標として、ただ勉強したいからだけだと絶対に挫折すると思いました。最高を目指すとしたら大学教授。バレーをやってる時も目標はオリンピック選手でした。今回も運命のようにこの話(ブリリアントアリーズコーチ就任)が来たので、女子バレーの組織が成長していって、Vの世界で上がっていく、その一端を担える旅に今、片足を突っ込んだところですね(笑)。今はまだ新しいチームとしてスタートしたばかりなので楽しみでもあるし、ここに私の最後のバレー人生を懸けます。潔い言葉の端々に、バレーボールへの情熱と強い覚悟が感じられました。これからのご活躍も楽しみです。石田京子さん、ありがとうございました!ニングポイントは?やっぱりロサンゼルスオリンピックですね。でも実感したのは引退してから徐々に、なんです。日本に帰ってきて、親が録画していたビデオとか新聞を見て「こんなに日本中が騒いでたの?」って。現地では普通の国際大会なので、なんとなくセキュリティが厳しいかなってくらい。開会式も日本選手の入場は後の方だからスタジアムに入るまでに2時間くらい待たなきゃいけなかったんです。スタメンはギリギリまで休んで、私達は暑い中ずっと並んでいたので、入場する頃にはぼーっとしていましたね(笑)。―当時、裏にはそんなエピソードがあったのですね。2020年もいよいよ来年に迫り、女子バレーボールには大きな期待がかかりますね。そうですね。(監督の中田)久美を応援しよう!と今でもロスの仲間と集まるんですよ。どれだけメダルを獲ることが大変か、彼女も知っています。当時は金メダルが獲れなくて非国民と言われましたが、(銅メダルを獲得した2012年の) 1960年7月12日、大阪府生まれ。薫英高校バレーボール部を経て、日本リーグの日立(当時)に入部。’84年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得し、 ’85年のワールドカップ日本開催では全日本の主将を務めた。信州大学を卒業後、同大学非常勤講師などを経て、長野大学社会福祉学部教授、同大学女子バレーボール部監督に就任。現在はルートインホテルズ「ブリリアントアリーズ」のコーチも兼任している。また、雪上で行う「スノーバレーボール」の第一人者で、普及に尽力すると共に、いずれオリンピック種目にするため日々奮闘中。石田京子(いしだ・きょうこ)▲ 現役時代の石田さん。ロサンゼルスオリンピックの翌年には、全日本の主将としてチームを牽引した。11
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